舘のひと Mi

舘のひと | Mi 

 

【経歴】

 

   1939 年   朝鮮釜山市生まれ
   1945 年  終戦直後家族と北九州市へ引き上げ
   1946 年   北九州市小倉市立米町小学校入学
   1954 年    〃   菊陵中学校卒
   1957 年   神奈川県立横浜平沼高等学校卆
   1957 年~ 1961年 一般事務 営業
   1969 年~ 2000年 夫経営会社専務取締役 経理    
   2000 年~ 2010年 絵を 描き始め同時にPCにも興味を持ち、旅を楽しむ充実の日々
   2010 年

 

   2011年   「ぎゃらりーMi」無料展示会場,同時に軽食・喫茶をスタート

 

   2018年   1月~ Miの作品展示場に

 

   2020年   3月 ~ 「ぎゃらりーMi」店舗 コロナ休業中

 

   2022年   5月以降、(コロナ状況改善しだい)
      「ぎゃらりーMi」は現代画家の作品展示場として再開予定

 

   2022年   5月30日より月・水・金曜日 「ぎゃらりーMi」店舗 再開

 

館の人 |  Mi 絵のあゆみ

 

 

【絵画経歴】

 

 

 

                        

 

 

 

   2000 年         絵を描き始める 
   2003 年~   グループ展数回 
   2005 年    県展 受賞 田川市市長賞 
           他  県展  入選6回 
   2010 年  9月  小倉井筒屋(デパート)にて「二人展」

   2011 年  3月  ぎゃらりーMi開館
 

   2011 年  ~ 2019 年  個展  毎年  9回

   2018年 6月  花美術館Vo60(美術誌)作品掲載

   2018 年 8月    々 Vo61   々
 

   2019 年 3月  「アートメイゾンインターナショナルVol23」美術誌作品 掲載
 

   2019 年 4月   花美術館Vo65 (美術誌)作品掲載
 

   2019 年11月  日加修好90週記念~日本ケベック友好~出品
 

   2020 年 3月  花美術館 Vo69 (美術誌)作品掲載
 

   2020 年 4月  『現代人気美術作家年鑑』 名簿掲載
 

     『現代人気美術作家年鑑』 “2019これが良かった!秀逸作品“掲載

   2020 年 6月  花美術館 Vo70(美術誌)作品掲載
 

 

   2020 年 9月  『 第2回タガワアートビエンナーレ「英展」』 入選

   2021 年 2月  『現代人気美術作家年鑑』 名簿掲載
 

       『現代人気美術作家年鑑』 “2020これが良かった!秀逸作品“掲載

   2021 年 9月  花美術館 Vo75 (美術誌)作品掲載

 

   2022 年 2月  『現代人気美術作家年鑑』 名簿掲載
 

       『現代人気美術作家年鑑』 “2020これが良かった!秀逸作品“掲載

   2022 年 3月  花美術館 Vo75 (美術誌)作品掲載

 

 

 

 

Mi の 想いと思い出

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私、Miは朝鮮釜山市生まれ、本年9月9日で83才になるお婆なのです、
ですがね、このコロナ禍で外出を控え、人さまとの接触を控える生活、その時間を利用して、ご覧のこのホームページを自分で立ち上げることに挑戦しましたが、これがなかなか大変で励み甲斐があるのです、これからも改善していくので見てくださいませね。

 

 過去を振り返ると30才代から、主人が経営するIT販売会社で専務取締役として頑張り続け、60才になった2000年主人の他界を期に会社を息子に渡し自分はを描き、を楽しむ生活を10年続けた、71才の時いろんな想いから今の無料展示場"ぎゃらりーMi”を開く、それから10年経過、コロナ禍で時間が出来たので、ホームページ作成に挑戦、何かに挑戦することで生き生きと、これから、もっともっと楽しめる人生でありたいと願ってる。

 

 

 終戦の1945年8月16日、5才の私、母、姉、兄の4人で引き揚げ船に乗り
母国日本の博多港に上陸、その時の状況は幼い私にはショッキングな事ばかり、あれから76年もの歳月が流れていると言うのに未だに脳裏に焼き付いて離れない。通常だと1晩の船旅が海面に浮かぶ無数の機雷を避けながらの運航に時間がかかる、少し暗いと船は停船し夜明けを待つ、結果2晩船上で過ごした、しかし、その船上で見た海から出てくる大きな大きな真っ赤な太陽のなんと神々しかったことか、それ以来Miは太陽の偉大さに平伏す想いで過ごすようになった。もう一つは船上で亡くなった少女がシーツのようなものにくるまれ海へと…水葬されたこと、また、上陸後に目にしたものは本当に惨い光景だった。

 

父親が当時、日本が統治していた朝鮮で警察署長をしていたので間もなく終戦になることを予測。終戦の翌日には家族と親族を母国に引き揚げ出来るよう、手配が整っていて終戦の翌日には釜山港で乗船、父のお陰で苦労少なく母の実家へとたどり着くことが叶いました、が、その後の引き揚げの方々のご苦労は、筆舌に耐え難いものだったと大人達の話を聞かぬ振りして耳をジャンボにしてた。


page top